2009年2月13日金曜日

長州ファイブ

先日(2月11日)、国際交流基金の企画でInstitusin of Contemporary Artsで上映された「長州ファイブ」を見てきた。これは、幕末、長州藩から幕府に無断で英国に渡って勉強し、その後日本に戻って明治維新による近代化の立役者となった5人の青年たち(伊藤博文、井上馨、井上勝、遠藤謹助、山尾庸三)の活躍を描いたもので、日本では2007年に全国ロードショーが行われ、第40回ヒューストン国際映画祭でレミアワードグランプリ(最優秀賞)に輝いた名作。(HPは、 http://www.chosyufive-movie.com/

史実には必ずしも忠実ではなく、娯楽映画として楽しめるよう脚色が施されてはいたが、それでも明治時代にヨーロッパに留学するということが、どれだけ大きな苦労を伴うものであったか、それを乗り越えて勉学をやり終え、日本に近代技術をもたらした彼らは如何に立派だったのかは十分に感じられる内容で、とても感銘を受けた。

それと同時におもしろかったのが、当時の日本の街の景色と今の日本の街の景色とは似ても似つかないものであるのに対し、ロンドンの街の景色については、現在とそれほど大きく変わってはいないように感じられたこと。これを「伝統を守ってすばらしい」と見るべきなのか、「進歩が遅い」と見るべきなのかは、見解の分かれるところかもしれないが、ともあれ事実としておもしろい。

一つの考え方としては、イギリスはすでに19世紀後半には国家としての成熟を遂げており、そこからの大変化をもはや必要としなかったのに対し、日本はまだ近代国家として生まれたばかりであり、そこから国家として成熟するまでに大きく変化することを必要としていた、ということなのかもしれない。

とすると、すでに成熟した経済国家になった日本の今後を考える場合、19世紀末から今世紀に至るイギリスのたどった道を、いいにつけ悪いにつけ振り返ってみることは、大きな示唆が得られるのかもしれない、映画を見終えて、そんなことを考えた。

こちらに来て痛切に感じることだが、イギリスというのは、本当に複雑な懐の深い国。アメリカや日本に比べて、時代遅れなところ、サービスの行き届かないところなど多々あるのだが、国民一人一人がとても成熟しており、それを反映して政治やマスコミにバランス感が感じられ、議論の透明性や納得度が高くて、うらやましく感じられるところが多いというのも偽らざる実感。別に生粋のイングランド人やスコットランド人でなく、移民出身であっても、また階級も貴族階級だけでなく中産階級や労働者階級に属する(未だにそういうものが残っているのがこちらの社会です)人たちであっても、この「議論の成熟」というのはおおむね例外なく見られるところが、興味深い。

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